梅毒の発生、蔓延について

梅毒は病気の名前であり、トレポネーマ・パリダム(Treponema pallidum)によって引き起こされる病気です。

有効な抗菌剤であるペニシリンが発見されるまでは、感染力も強く、感染したらほぼ死に至るような、恐ろしい感染症でした。

発生の起源は諸説ありますが、探検家コロンブスの航海により、ヨーロッパに持ち込まれたという説があります。

コロンブスは第一回航海で、サン・サルバトル島、キューバ島、エスパニョーラ島などに立ち寄り、先住民であったインディオ達と交流しています。

この交流は多岐にわたり、互いの物資の交換、奴隷として先住民を連れて帰ることや、現地での性交渉なども含まれていました。

この15世紀から始まった東半球と西半球の広範囲に渡る交換を『コロンブス交換』と呼ばれますが、ここでもたらしたコロンブス交換には病気も含まれています。

梅毒はコロンブス帰還後の西暦1500年前後を境にして歴史に登場しており、それ以前には梅毒を疑う物的証拠がなかったことから、有力な説として挙げられています。

 

梅毒の原因となるトレポネーマ・パリダム(Treponema pallidum)は、スピロヘータと呼ばれる細菌の一種です。

スピロヘータには様々な菌がいますが、この中でトレポネーマ属と呼ばれる梅毒を含む近縁種には、梅毒と似た症状を引き起こす菌も存在します。

これは西暦1500年以前にもあった病気で、フランベジア(森林梅毒)の原因となるトレポネーマ・ペルテニュ(Treponema pertenue)、ピンタの原因とされるトレポネーマ・カラテウム(Treponema carateum)、べジェルの原因とされるトレポネーマ・エンデミカム(Treponema endermicum)などが挙げられます。

こういったトレポネーマ属の細菌が何らかの要因によって変異し、トレポネーマ・パリダム(Treponema pallidum)になったのではないか?とも言われています。

1493年にコロンブス探検隊が帰還した際、多くの奴隷を連れ帰っています。この奴隷を公開した場所はスペインのバルセロナでしたが、まずはこのバルセロナでの流行があり、その後1495年前後にイタリアに梅毒は渡り、シャルル8世によって始められたイタリア戦争によってヨーロッパに広まったとされています。

当時のヨーロッパは売春も盛んであり、時代背景による感染の速さも関係していたのかもしれません。

当時の梅毒について、同じような時期に感染者が増えたため、フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼んでいたと記述があります。

トレポネーマ・パリダム(Treponema pallidum)はあっという間に欧州全土を席巻し、海を超え、日本で初めて発生したとされる記述は1512年前後だとされています。

これが梅毒であったのならば、わずか20年で世界中に広まったことからも、梅毒の感染力の高さが窺えます

経緯はどうあれ、発生してしまった梅毒は当時の医学では治すことの出来ない不治の病でした。

また、性交渉で感染してしまうことから、感染しやすく、かつ防ぎにくい、非常に恐ろしい病気だったことでしょう。

梅毒治療

1928年、アレキサンダー・フレミングによりペニシリンが発見され、ハワード・フローリー、エルンスト・ボリス・チェーンの両名によって高純度ペニシリンが精製されるまでの数百年間は、梅毒治療において闇の時代だったことでしょう。

多くの医師・科学者が必死になっても根本的な解決策は見つからず、時には人体実験まがいの行為もあったとされています。

初期のヨーロッパでの治療法としては、水銀を用いた治療(塗布や内服を行なった。)、ユソウボクと呼ばれる木の樹脂(万病に効くとされた。)を行なうものがありました。

効果については言うまでもなく、時には改善(一時的なもの・治療は無関係だった改善を含む。)した患者も居たそうですが、患者の殆どが命を落としています。

水銀治療は特に危険で、水俣病に代表されるように中毒症状を引き起こします。

ただし、当時はそのような事が分からず、『生命の源』と考えられ、古くから珍重されてきました。

加熱すると固体→液体→固体→液体へとを繰り返すことや、血液と同じ赤色であること、これを昔の人は生命と捉えたのかもしれません。

長い間水銀を用いた治療は続けられ、1754年にファン・スウィーテンが発表し、絶賛された昇汞液も水銀を希釈しています。

トレポネーマ・パリダム(Treponema pallidum)を殺菌しない限りは根本的解決になりませんが、当時は効果的な薬だと考えられていたそうです。

しかし、梅毒症状には第二期後に症状が消失する期間があります。文献の中には、投薬後に症状が軽快した為に、治療が成功したと間違えるケースも多くあったことでしょう。

ペニシリンの誕生までは上記の水銀治療の他にも、対症療法(原因ではなく、主要な症状に対する治療)であったり、ヒ素化合物の治療薬であるサルバルサン(副作用は強いが、トレポネーマ・パリダム(Treponema pallidum)に有効性があった。)を使用したり、患者をマラリアに感染させ、発熱で治す発熱療法が用いられることもあったようです。

(発熱療法の考案者はノーベル賞も受賞していますが、荒療治すぎるので非常に危険です。)

フレミングによって発見された世界初の抗生物質であるペニシリンは、偶然見つけられたと言われています。

ブドウ球菌を育成していたフレミングは、青カビによって汚染されたシャーレを見つけます。使いものにならないなと思った彼は、最初は捨てようとしたそうです。

ところが、青カビのコロニーの周りだけブドウ球菌の生育が抑えられている箇所を発見したことで、彼は「青カビが産生する何らかが、菌の生育を阻害(溶解)させているのでは?」と考えます。

この物質を青カビの学名(Penicillium:ペニシリウム)にちなんで、ペニシリンと名付けました。

フレミングは純粋なペニシリンのみを精製できないか、単離させる研究に没頭しましたが、結果として抽出することは出来ませんでした。

しかし、約10年後に転機が訪れます。

微生物の産生する天然の抗生物質を研究していたハワード・フローリー、エルンスト・ボリス・チェーンの両化学者は、当時フレミングの発表した報文を発見します。

細菌学者であるフレミングがペニシリンを単離できなかったのは、化学が専門分野ではなかった為でしたが、二人の化学者はこのペニシリンを研究し、治療効果や組成を明らかにし、高純度のペニシリン製剤の開発に成功します。

これにより世界で初めての抗生物質が誕生しました。

 

開発当時はペニシリン製剤は軍事特権としており、一般には流通しておりませんでしたが、第二次世界大戦中に多くの傷病者の命を救ったことから、その効果は既に周知されていました。

民間にも行き渡るようになったのは戦後のことで、日本では1946~47年にジャクソン・フォスター教授の指導の下に、各製薬会社でペニシリンの大量生産が開始されました。

これにより近代医学は大きく進歩し、抗生物質は感染症治療において欠かせない存在となります。

現代でもトレポネーマ・パリダム(Treponema pallidum)に対する第一選択薬はペニシリン系抗生物質であり、他の細菌が獲得してしまうような薬剤耐性も、現在のところ報告されていません。

梅毒との数百年間の戦いはここで終わり、早期の治療であれば完治できるようになったのです。

フレミングが発見したペニシリンは人類の偉大な発明として、いまも薬剤の礎を築いています。

日本における梅毒の歴史

日本における梅毒は唐瘡(とうがさ)や琉球瘡(りゅうきゅうがさ)とも呼ばれ、1512年に京都の医師だった竹田秀慶は月海録にて「市民に多く瘡ができている。浸淫瘡(しんいそう。今でいう潰瘍性の皮膚疾患と思われる。)に似ている。これを唐瘡、琉球瘡と呼ぶことにする。」と記しています。

医師が記した記述はこれが最初と言われています。

南蛮人渡来の30年前には梅毒が蔓延していた可能性があり、この理由としては、欧州から直接梅毒が持ち込まれたのではなく、中国や琉球などを経由し、日本へ入ったのではないかと言われています

日本で発生した梅毒は各地の色街を中心に巷に増え続けました。当時の日本の色街は、かなり多くの梅毒患者がいたと考えられています。

背景として、日本の色街は借金などで身売りされた女郎が多く、たとえ梅毒に感染しても休むことは許されませんでした。

症状が進行し、初めて休むことが許されますが、鳥屋(とや)と呼ばれる部屋に軟禁され、決してよい環境で休ませてはもらえなかったようです。

 

当時の栄養状態の悪さから、初期の梅毒で亡くなられる方も多く居ましたが、梅毒を乗り越え復帰した女郎は『鳥屋(とや)についた』と言われ、一人前の女郎として扱われました

完治した女郎もいたかもしれませんが、第二期後の潜伏期に治ったと勘違いし、そのまま復帰した女郎が多かったのではないでしょうか。

梅毒に感染し『鳥屋についた』女性は、より美しく女郎らしくなったとされ、価値が上がったそうです。男性も梅毒になることは分かっていても、男の勲章としてそういった女性を求めたとされています。

 

昔の日本では命に関する捉え方が希薄だったこともあるせいか、それとも別の要因かは定かではありませんが、今とは違う考えをしていた風潮があったようです。

宣教師であるルイス・フロイスは1585年に日本と欧州の風俗の違いを記していますが、この中に「我々は梅毒にかかったとしたら、それは不潔なこと、破廉恥なことである。

しかし日本では男女ともにそれを普通とし、恥じている様子はない。」といった一文を記述しています。

余談ではありますが、『付け鼻』という飾り物が数百年前の日本では存在しました。

梅毒3期になるとゴム種と呼ばれるしこりができます。これは周辺組織を破壊するため、鼻骨にゴム種ができると鼻が陥没することがあります。

そうなると、まるで鼻が落ちてしまったかのようになるので、これを恥ずかしいと思い、付け鼻をしていた人も居たようです。

梅毒の流行

梅毒の流行に対して、初期の日本では東洋医学(主に漢方治療)での治療を行なっており、土茯苓(どぶくりょう:水銀治療の解毒にも使用された。)を始めとした漢方を使って梅毒の治療をしていました。

西洋医学(蘭方医学)が主に伝わり始めたのは1641年のことで、長崎の出島オランダ商館が誕生すると、商館医師として西洋医学を学んだ医師が常駐しておりました。

その医師たちは日本人を診療したり、医学や学問を教えたりもしていました。日本人の中には感銘を受けて、進んで学びに来る者も多かったようです。

ただ、西洋医学は伝えられた後も、蘭学を教えられる人間の少なさ、そもそもの不信感などから、当初はあまり浸透しませんでした。

 

こういった背景もあり、今とは比較にならないくらいの患者が巷に溢れていたとされています。

医師であった杉田玄白は、1802年の形影夜話にて、「自分の患者の7割以上は梅毒である」と記しています。

これだけでも驚異的な割合ですが、当時の生活環境を考えると、金銭面から医師に診せることのできなかった患者も多くおり、潜在的な患者はもっと多かったと予想されます。

梅毒患者を食い止めることはできないままでしたが、幕末に入り近代化が進むことで、これまで野放しのようであった梅毒に対して、ようやく考えが変わってきます。

西洋医学による治療・梅毒検査の重要性は徐々に浸透していき、上記の杉田玄白らによる解体新書の出版や、適塾(西洋医学を勉強する塾)を開いた緒方洪庵、当時の先端医学を長崎で教えた、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト医師などの先人達の活躍もあり、

西洋医学が周知されていった背景や、どうやって梅毒の発生を抑えるかを幕府・新政府も考えており、1876年に全国の遊郭に検梅院(梅毒を検査する施設)が設置されました。

この甲斐もあり、梅毒患者は減少傾向にあったようです。

 

さらに、1900年に娼妓取締規則が定められたことで、娼妓の女性の健康状態を把握できるようになります。

娼妓稼業を行なうには健康診断を行なった後に届出をしなくてはならなかった為、検梅制度がほぼ義務化されます。

登録を拒んだ私娼と呼ばれる女性は、強制力を持って稼業の廃止・検査をなされたようです。

これにより新たな感染は抑えられ、梅毒はゆっくりと沈静化していきます。

国は梅毒患者の総数を把握しようともしていましたが、この時代ではまだ制度が決めきれていなかったこともあり、患者総数の把握は1948年の性病予防法が施行された時から始まってきます。

1950年当時の報告患者数は約10万人とされておりましたが、年々減少を続け、1967年頃に1万人を下回ったあと、1990年には1000人以下になっています。

 

完治できるようになって梅毒は恐れることのない病気になりましたが、逆に報告数が減少したことによる、一つの問題も表れています。

梅毒という病気は、一定の患者数は居るものの、ここ数十年は新規患者の報告数が約1000人程の病気だったこともあり、現代の日本において「聞いたこともない」という人も居るほどです。

しかし、ここ数年の間に患者数は劇的に増えています。

厚生労働省の性感染者報告数によると、2014年には1661人、2015年には2690人、2016年には4559人(いずれも全国の発生報告件数。)であると報告されており、4000人を超えるのは1974年以来初めてとなります。

 

既に流行と呼べる段階に差し掛かり、男女の区別なく、感染者を増やしています。

梅毒はキスによる体液の交換でも感染しうる病気であり、決して直接的な性行為だけが要因ではありません。早期発見と早期治療の為にも、不安な行為の後には検査を行なうのが望ましいでしょう。

 

参考文献:

加藤茂考氏 モダンメディア62巻5号第6回「梅毒」コロンブスの土産・ペニシリンの恩恵

ルイス・フロイス 著 岡田章雄 訳 ヨーロッパ文化と日本文化

国立感染症研究所 梅毒記事一覧

Centers for Disease Control and Prevention(アメリカ疾病予防管理センター) 梅毒記事一覧

ルイス・フロイス 著 岡田章雄 訳 ヨーロッパ文化と日本文化